昭和41年02月12日 朝の御理解



 この十日のお月次祭に、もうこりゃ永年必ず、お鏡さんのお供えをなさる方がある。十日のお月次祭のお鏡さんだけはもう、必ず私の方からおかげを頂くといくことに、まぁ決めておられる。ところが、今度の十日の月次祭に限って見えんのですね。それでまぁ一応、お鏡さんこんですねと言ってから、まぁだ今日は見えませんと言う。もう神饌が殆ど終わってからでございました。あの盛り付けを致しますのでね。
 けどもその時には、ちょうど他のところから、お鏡さんのお供えが来とったんですよ。ところがやっぱり来れば、だからダブるわけなんですね。神様は本当に永年これは必ずお供えがあるのに。今日に限って、神様は忘れさせて下さってるばいなと、言いよりましたら、見えられました。ね。そしてまぁそこはちょっと、久保山先生がお取次ぎなさったから、知りませんけれども、あのいつもお鏡さんなのに、恐らく忘れておられたんだと思うですね。頼んどかなければなりませんから、お鏡さんは前の日から。
 だからもう間に合わんもんだから、お神酒をお供え。代わりにでしょう。持ってお参りになったんですけれども。こう言う様な事はもう何時も皆さんの上にも、そういうお繰り合わせ、神様の同士だとこう思うんですね。いわゆる神ながらのおかげを頂くわけなんです。そういう様なときに、こう本当に神様のお働きって心配要らんなぁ、神様が間違いなくおかげ下さるもんだなぁと言うことを感じますでしょう。これはお神様だけのことではありません。もう一事が万事にです。
 はぁ忘れてあるとばいなと。困ったなと。さぁ今度どうしようかと言った様な事の無いで済むような、だから信心をしとかなければならんという事ですね。昨夜も十時過ぎてからでございました。私はまぁだこちらでお取次ぎをさせてもらいよりましたら、秋永先生と、高橋さんとやって参りました。御造営のことについての、このガラスのそれを、はっきり決めてくれとこう言う訳なんです。
 畳屋からそれを言うて来ておりましたから、電話で連絡とっておりましたら、その明日、明日の朝の御祈念にお参りして、そん時に決めるということであったから、私はその積りでおりました。ところがその、昨夜やって参りましてから。まだ他にも決定しなければならない。今度全部あのお広前関係、このガラスとかがサッシになるわけですね。こりゃやっぱり金額でも、何百万かかるです。ガラス戸が。もうその代わりもう一間の一枚ガラスが、サッシで出来るのです。アルミサッシで出来るのですから。
 もうどんなに風が吹いても、べたっとも言わんようなので、出来るわけなんですね。それで、もう本当に私は、先生方も大変だと思うんです。昨日でもあれは、その全部の工場を回ってから見積もりを、五件か六件か取ってございます。それはやっぱり二百五十万かかるとこもありゃ、百五六十万で出来るというとこもある。とにかく五十万ぐらい違うです。ところがあるんですねぇ。
 けれどもそのやはり仕上げの良いところは分からんものですから、とうとうそのお二人が、もう高橋さんは、もう絶対これが言いという訳なんです。そすと秋永先生は、絶対こっちが良いと言うわけです。もうそれが昨日、まるきり喧嘩のごたるですもん。しかしまぁほんと、よう一生懸命あぁやって、本当にもう本当に、少しでも良いようにと言う気持ち。そんなら委員長、それじゃ今から椛目に行きましょう。
 もうしゃっち高橋さんが、昨日は用があったらしいんですけれども、あんな遅うから連れてきて、ここでまた十二時過ぎまで、検討してるんですね。例えばほんなら、そのサッシのことじゃなくて、このガラスの模様でも廊下を、秋永先生はどうでも、すりガラスにするという。高橋さんは絶対もう透明にするとこういうわけ。そんな風でその右といや左と言うわけじゃないけれども、それぞれがその、私がまぁどうしてどっちでん、我の強いことねて、その言わずにです。そこに私は神様の働きを感ずるですね。
 私はそのことを、神様にこうお願いさせて頂きよりましたら、こうあの灯篭の、灯篭の一番下のところが、こう三つに足がこう、分かれておるでしょうが。あれを頂きますもん。ははぁいうならば、高橋さんと秋永先生と、まぁ私と私という事は、まぁ神様の働きと言うことでしょう。ね。良いと言うものがあり、悪いというものがあり、そこでほんなら、ご真意を頂いてということになり、ね。
 もうとにかくあぁた、なんでんご真意頂いてからもう、親先生にお伺いしてするが、一番良かがとと言うだけではいけないという事ですね。そこにほんなら、私自身がです、ね。いわゆる、神ながらな信心をしておらなければ、本当に、神ながらのものになっていかないと言うことです。ほんならその、お鏡さんの場合もそうです。ね。私が神ながらの信心が出来とると言うようですけれども。
 まぁ神ながらの信心にならせて頂かねばならん。もう、そうならせて頂かにゃならんと、こう私が祈りに祈り願いに願い、出来んけれども、それを思うておる。ね。これこそ永年の間、十日のお月次祭には、絶対必ず紅白のお鏡さんを、前の日から餅屋に頼んであって、そしてそれをお供えに持って見えるのに、その日に限って、もう夕方になっても見えられん。どうしたことだろうかとこう思いよる。ね。
 ところが恐らく忘れてあったんでしょう。慌てまわってほんなら、もう今度仕様のなかけん、お神酒さんなっと持ってから、早うお参りしてくれとこう言われたことに違いないのです。結局お鏡さんを持って見えませんでしたけれども、こちらにはちゃんと紅白の立派なお鏡さんがお供えになっておったと言う事です。ね。いわばこのいわゆる神様は忘れさせてござったという事です。ね。その秋永先生たちの話でいうならばです、ね。必ず片一方に赤と言わせ、片一方には必ず白と言わせござると言う事です。
 そこに、私のいわば、神ながらの信心が出来ておればです。それがいわゆる、余りもしなければダブリもしなければ、とうとお鏡なしでと言った様な事も無いで済むような、お繰り合わせが、その場に頂けていくのじゃないかと。皆さんの上にでもそうです、ね。自分の意思、自分の思いというのは、こうであってもです、どうであってもです。ね。それに反対する人があっても良いのであり、赤があってもよし白があっても良い。問題は私がひそかに信心させてもらう。
 最近はそのことを申し上げますけれど、そんな場合はそうなんですね。一人ひそかに信心させてもらう。本当に、神ながらの信心を、私がさせて頂ければです。赤と言いよっても、青と言いよっても、白と言いよってもです。結局は一番、神ながらな色が定まってくるということ。神ながらなおかげが頂けてくるという事。ね。そこんところを思わせて頂く時にです。いよいよ私共が、いわゆるただの我情我欲の信心じゃいかん。神ながらの信心をさせて頂かにゃいけんという事になります。
 でないと、おかげが、いわゆる、神ながらなという事になって来ないのです。ね。まぁこういう例は沢山ございますよね。椛目の場合は何時も。ね。なら皆さんもそれを、まぁおかげ受けておられますよね。ですからその、体験が体験を積んでいってです。いわゆるなるほどお取次ぎを頂いて、神ながらな信心をさせて頂いておかなければならんという事を、まぁいよいよ、実感させて頂くところにです。本当の信心がそこから出来てくるのじゃないかと思うですね。
   どうぞ。